竹下英一氏書簡コレクション

竹下氏書簡コレクション

 先日、樟蔭女学校に勤務されていた竹下英一氏のところに届いた牧野富太郎からの書簡コレクションを、ご子息から寄贈していただきました(書簡50通、葉書70枚、電報6通)。今日はこのコレクションを閲覧するために、兵庫県のS岩先生がいらっしゃいました。
 竹下英一氏(1879?−1957)は大正7年4月10日から樟蔭女学校の博物学の教諭として勤務され、大阪植物同好会の中心メンバーとして活躍されました。牧野富太郎とは樟蔭女学校の植物園を造園する際からのかかわりのようです。大和葛城山においてカツラギグミElaeagnus takeshitae Makino(J. J. B. 5(6): 25 (1928))の発見に関わり、献名されています。なお、タイプ標本の採集者は牧野富太郎のものと、原宮男のもの。
 さて、問題の書簡の内容ですが、あまりに牧野富太郎が達筆なので、最初はさっぱりどう読んでいいものかわからなかったのですが、S岩先生に教えてもらいつつ、なんとか読み進めることが出来ました。書簡は近畿での観察会の実施の際のやり取りも含まれていました。
 「観察会の参加人数が30名も超えないとは怠慢で、もっと世話役が努力すべきである。その程度の人数では私は行けない」
とか
 「私が東京まで行くとなるとお金が結構かかる。同好会にはそのようなお金は負担だろうから、京都の田代君(田代善太郎)の方が適当だと思う。」
など、結構シビアなやり取りをしています。
 電報なども残されていて、「明日8時に梅田につく(つまり、迎えに来い)」とか「明日9時に京都につく(やっぱり迎えに来い)」など、近畿での活動の際に竹下氏は関わっていたようです。自宅に宿泊も何回もされているようでした。

 
 大阪植物同好会は、現在、大阪で活動している近畿植物同好会とはまた別の系統の植物同好会で、この会の活動がどのように行われてきたのか、会誌は残っているものの多くの点がよくわかりませんでした。1931年で会誌も終わってしまっています。今回の書簡は、大阪の植物屋は大正から昭和にかけてどのように活動していたのか、そこに牧野富太郎はどのような関わり方をしていたのかがわかる、大阪府近畿地方の植物研究史の資料としては一級のものであると言えそうです。
 私の仕事としては、当面スキャナーで取り込んでデジタルデータ化を進めることになりそうです。
 仕事山盛りですね。